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社会福祉法人 イエス団は、イエス・キリストの生き方に従い、1909年12月24日、神戸の新生田川地区にて伝道、隣保活動を開始、その生涯を社会的に弱い立場に立たされている方々のために捧げた賀川豊彦によって創設されました。
関西を中心に、保育園をはじめ40の施設で活動を進めています。
社会福祉法人 イエス団
「ミッションステートメント 2009」
前文
わたしたちイエス団の実践は、1909年12月24日の賀川豊彦の献身に始まる。
そして、イエスの愛に倣い、互いに仕えあい、社会悪と闘い、新しい社会を目指して多くの協働者とともに今日まで歩み続けてきた。
この歴史を検証し、働きを引き継ぎ、今、わたしたちはイエスに倣って生きる。
一、わたしたちは、いのちが大切にされる社会をつくりだす
一、わたしたちは、隣り人と共に生きる社会をつくりだす
一、わたしたちは、違いを認め合える社会をつくりだす
一、わたしたちは、自然が大切にされる社会をつくりだす
一、わたしたちは、平和をつくりだす
2009年12月24日
「わたしたちは、いのちが大切にされる社会をつくりだす」
私たち一人ひとりは「かけがえのない生命(いのち)」が与えられています。しかし、今の社会の状況を考えれば、この「かけがえのない生命(いのち)」が粗末に扱われ、軽んじられている時代であるといえるでしょう。世界各地で繰り広げられる戦争や紛争によって失われる「いのち」。虐待やいじめにより奪われる「いのち」。無差別殺人により蔑ろにされる「いのち」。「脳死を人の死」とされ、人間の判断によって終焉を迎えさせられる「いのち」。社会に絶望し、苦悩の末、自らその営みを断たれていく「いのち」。そこで犠牲になる「いのち」の多くは、子どもたちや高齢者、障がいのある方、被抑圧者や被差別者など、いわゆる最も弱い立場に立たされている方々の「いのち」であります。
イエスは「野の花、空の鳥のたとえ」(ルカによる福音書12章22節〜32節)の中で、生かされている人間一人ひとりの「いのち」のすばらしさを、蒔かず、刈らず、倉に納めずに養われているカラスのいのち、また働きもせず、紡ぎもしないで養われている野の花のいのち、すなわち自然が自然のままで生かされて在ることのすばらしさから学んでいるといえます。
また、この聖書の箇所が示している大切なことは、イエスがここでカラスや野の花をたとえにだして言及している点であります。鳥のなかでも当時イスラエルにおいては、人間にとって忌むべき鳥、汚らわしい鳥のカラスを引き合いにだし、「きょうは野にあって、あすは炉に投げ入れられる」という価値のない、なんでもない野辺の花、雑草を引き合いにだしています。このような通常嫌われ、無視されている存在の小さな「いのち」に、イエスは注目しているのです。すなわち、この世の価値基準からみれば、最も小さいものであっても、最も弱いものであっても、あるいは最も小さいもの、最も弱いものこそ、最も大切にされるということなのです。
私たちは、イエス団に連なる者として、人が人として等しく生きられ、かけがえのない生命(いのち)が大切にされる社会をつくりだしていきたいと考えています。
「わたしたちは、隣り人と共に生きる社会をつくりだす」
今、私たちの社会は、「合理化」や「規制緩和」などをキーワードに、経済的な格差を強め、それぞれの立場の人が「それなり」に過ごすことができるとされる社会に進もうとしているようです。ですが、それは、人と人とのつながりを弱め、本来、社会によって心身ともに優先的に守られるべき人々が、恒常的に、いろいろな意味で「危険」にさらされ、結果的には人が歪められるような社会に転落していくことにならないでしょうか。
その中で私たちは、隣り人と共に生きようとしています。それは、「共に生きる」ということが、自然や環境、他者など、「わたし」とふれあう様々な人、事柄との関わりを通じて、自分を見つけ、相手を発見し、それぞれを大事にすること、そしてそこに喜びをみつけることであると知っているからです。
子どもも大人も、あらゆる立場、状況に置かれた人も、等しく尊重され、「共に生きる」ことのできる社会を、私たちも担い手の一人として、それぞれの現場からイメージしていくものでありたいと思っています。
「わたしたちは、違いを認め合える社会をつくりだす」
私たちは、一人ひとり違っているからこそ互いに関心を持ち、新しい出会いの中で刺激し合い、豊かな経験を積み重ねることができます。そのような世界が豊かな世界なのです。だから、違いは悪いことではなく、互いに補い合って、さらに豊かになるための大切なことがらです。
私たち人間の歴史には、民族や人種、宗教や文化、性別など、更には歩んで来た歴史そのものの違いによって悲惨な虐殺や迫害が起こり、多くの大切な命が蔑ろにされた事実がたくさん記憶され、それは今でも続いています。
このように、「違うこと」によって相手を見下したり、排除したりする心は、そんな社会の仕組みの中で生きる私たち自身の中にあります。そこからは、憎しみや怒り、嫌悪といった否定的な感情しか生み出さないことが多いのではないでしょうか。
そのような心をもつ私たちが果たして平和な社会へと導かれることがあるでしょうか。むしろ、恐怖と不安の充満した社会にならないでしょうか。かつて賀川も誤った認識により書物を著し、多くの人たちに大きな苦しみを与えたという事実があります。真に違いを認め合える社会をつくりだすために、私たちは、こうした歴史的事実と過ちを真摯に受け止めなければなりません。
私たちは、一人ひとり「違い」があり、違っていて当たり前なのです。むしろ、「違うこと」は宝物です。互いに違った宝物を補い合う関係は、新しい世界を創造し、新しい力を生み出す関係です。そう思うと、違いを認め合える社会を作り出すことは、ますます豊かな関係を生み出し、よりよい社会をつくり出すことであるのです。それは、平和な社会を築くことになります。
「わたしたちは、自然が大切にされる社会をつくりだす」
私たちが日々生活を営んでいる地球という環境に大きな変化が起きています。それは、ゴミ問題、水問題、エネルギー問題、希少生物の絶滅の問題、そして地球温暖化など多岐にわたっていますが、それは、これまでの産業における技術革新と経済的発展が副次的にもたらした自然への大きな影響といえます。いずれの問題も、未来への責任という意味で、私たちにとって避けることのできない大きな課題です。
「自然」が大切にされないことによってもたらされる災害や食糧問題は、貧困や戦争をまきおこし、さらに命がおびやかされる深刻な事態とつながっています。
私たちは、自然を大切にすることが、命をまもり、平和をつくりだす、人としての基本的な営みであることを知っています。そんな想いを実感できるような社会を、ともに築き上げていくものでありたいと願っています。
「わたしたちは、平和をつくりだす」
「平和」ということを考えるとき、そこにはふまえておきたい大事な視点があります。ひとつは、かつての日本がたどったアジア諸国への侵略と抑圧、広島・長崎への原爆投下、そして敗戦という、加害と被害の凄惨な歴史的出来事への反省から、いまなお各国で続く戦禍と、命がいとも簡単に奪われていくような社会的抑圧に苦しむ人々に心を寄せるということです。
もうひとつは、私たちの身近なところで、本来、社会によって心身ともに守られるべき人々が、「危険」にさらされていることに気づくということです。
「平和を見つめる」とは、実は、そんな想いを持ちつつ、社会がそうであってはならない≠アとに気づき、こうであってほしい≠アとを、私たちから具体的に希求する営みに他ならないと思います。それは、一国の平和主義ではなく、国を越え、民族を越え、宗教を越えて、すべての人々が等しく心豊かに暮らせる社会実現こそが求められていることなのです。
新約聖書マタイによる福音書第5章9節に「平和を実現する人々は幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」とあります。イエス団に連なる私たちは、その与えられた働きの場で、平和な社会の実現のために、知恵をだし、工夫をしながら、様々な取り組みをなしていきたいと考えています。
平和という言葉の定義は難しいところがあります。しかし、私たちは次のように考えます。「ミッションステートメント2009」に記されている「いのちが大切にされる社会」「隣人と共に生きる社会」「違いを認め合える社会」「自然が大切にされる社会」をつくりだすことが、すなわち「平和をつくりだす」ことであると。
社会福祉法人 イエス団
理念委員会