「イエス団憲章」用語注解

※用語につきましては、当時用いられていたままに記載しております。


1. 1909年12月24日

死の宣告を受けた若干21歳の賀川豊彦は、この日に当時、日本でも有数のスラム街であった新川の地に移り住んだ。これがイエス団の出発となった。


2. 社会悪

19世紀半ばにイギリスを中心とするヨーロッパ社会に起こった資本主義による産業革命は、その必然の結果、世界各地に植民地を獲得しながら、アジアに門戸を開くよう求めてきた。

遅れて門戸を開いた日本は、この資本主義の経済構造のなかでの国づくり、社会づくりを急いだが、それはまた大きな歪みをもたらし、特に都市の労働者の生活を苦しめることになった。


3. 最微者

賀川は、「最微者の一人に行わざるは、すなわち我に行わざりしなり」(マタイによる福音書25章45節)と訳している。

ここで言う最微者とは、前科者、獄にある者、衣食の貧しい者、富のない者、裸で凍る者、行路病者、人生の暗黒にある者、子ども、高齢者、障がい児者、売春婦等を指す。

(賀川豊彦氏大講演集第18『最後の悲劇』より)

クリスマスをはき違えて、ご馳走と贈り物と、余興と忘年会と受け取るなら、それこそキリストにすまない話しである。……クリスマスは弱者の味方になることを決心する日でなければならぬ。……

私は44年前のクリスマス前の晩、ディッケンズの「クリスマス・カロル」の物語を思い出しながら、神戸葺合新川貧民窟に入った。各教会では賑やかに祝会を催していた。だが、私は一人淋しく人殺しのあった借家に寝た。

随筆「空の鳥に養われて」より


4. 賛同者

賀川は、妻ハルをはじめ多くの賛同者を得、実に多方面にわたる事業をなしました。その多くは彼自身の人格に触発されて、時代を先取りした情報を受け、事業を継続、発展させてきました。

その方々は(イエス団を中心として)次の通りである。

☆労働組合運動

 鈴木文治(友愛会)

☆農民組合運動

 杉山元治郎(初代委員長)

☆協同組合運動

 今井嘉幸・酒井正七・間所賢二(共益社)

 福井捨一・林彦一・涌井安太郎(神戸購買組合)

 那須善治・田中俊介(灘購買組合)

 木立義道(江東消費組合)

☆セツルメント運動

 吉田源治郎・小川秀一(四貫島セツルメント)

 金田弘義(生野隣保館)

☆医療事業

 馬島們(医師・産児制限)芝八重子(看護婦)

☆伝道

 武内勝・杉山健一郎・黒田四郎

 北川信芳・枡崎外彦・武藤富雄

☆社会事業

 長谷川保(聖隷福祉事業団)

 埴生操・吉田幸・吉村静枝(乳幼児保育)

 遊佐敏彦(職業紹介所)

 後藤安太郎(救ライ運動MOL)

☆政治

 河上丈太郎(社会党委員長)

 西尾末広(民社党委員長)

 三浦清一(議員)

☆平和運動

 湯川秀樹(世界連邦)

〈文責 企画委員会〉


5. 贖罪愛

キリスト教では、神の子(イエス)が罪人の中に降り給うて、罪人のために神にとりなす、それが「贖罪愛」です。

罪の原典は債務のことです。ですから債務者のためにとりなすことを贖罪愛と言います。

しかし賀川は贖罪愛とは難しいので《尻拭い》とか《下座奉仕》と表現した。賀川の常套語である。

「使徒パウロと賀川豊彦」贖罪愛の実践、尻拭いの神学より


6. セツラー(settler)

セツルメント(Settlement = 隣保館、社会館等)に居住して、地域福祉事業に参加、従事する者をいう。

イエス団初期のセツラーは、各自職をもち、その得たものを共有しながら事業に参加した。

賀川は、セツルメント・ワークが、建物中心になる危険を徹底して戒めた。

そして

(1)セツラーが地域に生きる人々と共に歩むことを「人格交流運動」、「民主運動」とよんだ。

(2)セツルメントは、社会的測候所として、地域の状態を常に調査し、それを社会に発表する役割のあることを強調した。


7. 開拓的・実験的事業

賀川は当時の法や制度にとらわれることなく、以下のような事業をなした。

無料宿泊、簡易食堂、医薬施療、無料葬式、人事相談、職業紹介、立体農業、教育(夜学校・洋裁学校)、幼児保育(男性教諭の登用)、協同組合運動(生活・医療・学生・農協)、金融(労働金庫・信用金庫・保険)、共済組合、日本農民組合の結成に尽力、労働組合運動を指導。


8. 平和な世界

賀川は「教会を強くして下さい、日本を救って下さい。世界に平和を来らせて下さい。」と力強く祈った後、天に召されました。この祈りでも分かるように、彼は、その人生の最後まで世界平和を希求してやまなかった。

彼は16歳の時に洗礼を受け聖書の教えから非暴力、無抵抗主義を通す平和主義者になっていった。

しかしこのような彼の願いとは裏腹に日本は益々戦争への歩みを速めて行きます。彼はこのような動きに対し、常に反戦平和を訴えたために、軍部と対立し、幾度となく憲兵隊の取り調べと拘留をされます。

この間の主な動きは

1906年(17歳)

徳島中学在学中、生徒必修の軍部教練を拒否する。

1907年(18歳)

徳島毎日新聞に「世界平和論」を投稿

1945年(57歳)

8/15敗戦、8/19に松沢教会での礼拝で早くも戦争責任を告白した上で、新しい国の方向として「世界国家建設」を訴える。

そのなかで

(1) 良心に立ち帰れ

(2) 核兵器を全面的に禁止せよ

(3) 軍部を撤廃せよ

(4) 再び戦争を繰り返すな

と訴える。

8/30 読売報知新聞に「マッカーサー総司令官に寄す」を寄稿。その中で世界平和への奉仕に役立つことが日本の進路と述べ、具体的には国際協同組合と世界国家提唱す。

9/27 国際平和協会設立。

1958年(70歳)

世界平和のためのキリスト者国際会議(議長就任)「国境を越え、世界平和のために祈り、罪を懺悔しつつ、《キリストは私たちの平和》」を英米仏独他アジア、アフリカ18カ国の人々と確認する。


以上のように彼はその生涯を世界平和の為に闘ったといえる。具体的な取り組みとして、飢え(経済と戦争)からの解放は国際協同組合の確立をおいてはないとの確信を世界の人々に訴えた。

その結果ノーベル平和賞にノミネートされること二度。しかし賀川の反戦の働きは、国民に与える影響の大きさから、軍部は黙視出来ず、強権によって賀川の行動を規制。

そこでついにキリスト教界を守るためにやむを得ず聖戦との発言や反米放送等を行う。

こういった理由もあってか、二度目で受賞確実視されたが、惜しくも実現することなく天に召された。